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大屯山から始まる音楽の旅

文章 : 游如伶(ヨウ・ルーリン)

撮影 : 蔡耀徵(ツァイ・ヤオツェン)

アーティスト・雷擎(L8chin)のインスピレーション

雷擎(L8chin)は、祖父の日記がびっしりとプリントされた柄シャツを着て約束の場所に現れました。彼の祖父は国民党の軍人として台湾にやって来て、北投の大屯山の麓の村に住んでいましたが、1970年代初頭に山の上の官舎に移り、そこに定住しました。1992年生まれの雷擎は、軍人の家庭で育ちましたが、生前に書を嗜む祖父を見たことが無かったと言います。そして4、5年前に北投の実家を改装した際、祖母の手伝いで鍵のかかったタンスをこじ開けた時、中から祖父の残した日記を発見したのです。一日一ページ、一年に一冊綴られていた日記には、日常の出来事や旅行のことなどが丁寧に綺麗な字で書かれていて、まるで彼の家族史のようだったそうです。また、1960~1970年代の台湾各地の様子も記録されていました。

 

その日記から家族の歴史をひも解くと、まるで時空を越えて祖父と会話しているような気持ちになったと言い、その横一列に並んだ分厚い日記たちが音楽を創り出す彼のインスピレーションを刺激したのです。「祖父の筆跡や祖母の思い出を辿って、かつての台湾の姿に心を打たれ、今の台湾や自分の感じたこと、その思いを残したいと思いました。」

曲作りに込められた家族の絆

去年リリースされた雷擎の個人初の創作アルバム『Dive & Give』は、第33回金曲奨で最優秀新人賞にノミネートされました。アルバムに収録されているそれぞれの曲は、個人的な体験からインスピレーションを得た家族との心の絆を表現しており、彼の人生の旅路を記録した最初の一枚となりました。

 

『Dive & Give』の製作のため、彼は台湾という土地と自分の生い立ちの物語を探し始めました。それを知った父親が、彼に3本のカセットテープを渡してくれ、そのテープは時間を巻き戻したかのように、彼が生まれてすぐに北投の大屯山にある家へ戻った時の音を聞かせてくれました。赤子の鳴き声、あーうーという赤ちゃん言葉、食卓での何気ない会話、親子の何気ないやり取りなどが詰め込まれていて、「楽曲を創作中にこの音を聞いてると、故郷の家にいるような温かさや安心感があって、それでこの音たちを『Stars』に入れたんです。」

 

楽曲製作当時、コロナ禍の影響で遠くオーストラリアにいる弟に会うことができず、遠く離れた家族に、祝福と願いを込めて「Stars」という曲を書き上げました。曲の中でシンガーソングライターの「?te壞特」が祈りのように繰り返し唱える「Layyi」は雷擎の弟の名前「雷仡」のことです。イントロの喃語や曲の終盤の赤ちゃんの泣き声は全て1992年のカセットテープに収められた音、そしてトランペットの軽やかな音色で、幼いころの兄弟の泣き声を表現し、歌と泣き声が交錯する曲の中で、家族の深い絆を歌い上げています。

写真 : 雷擎のファーストアルバム『Dive & Give』。台湾文化と自身が歩んできた経験からインスピレーションを得た雷擎の音楽は、自分の人生という旅の記録でもあります。[写真提供 : Floating Music(浮気音楽)]

 

「那卡西(流し)」から読み解く北投の音楽文化

雷擎は、家族への深い想いを表現するだけでなく、クリエイターの視点から、消えゆく北投の文化に想いを馳せ、「那卡西(流し)」を作りました。その呼び名は、かつて夜のお店で流行していた音楽のジャンルの一つを指しています。雷擎の育った時代は、花街の女郎達と共に流しのミュージシャン達もすっかり姿を消していました。「小さい頃、よく両親と一緒に六窟温泉のレストランで食事をしたり、温泉に入ったりしていました。足を踏み入れたらすぐに舞台があったのですが、北投の本当の流しの演奏は見たことがなく、その残された足跡から手がかりを探すしかありませんでした。」

 

「那卡西」という曲は、過ぎ去った時代のイメージと、実際の個人の体験からインスピレーションを得て出来上がりました。雷擎は大学時代、宜蘭県にある蘇澳のバーで歌っていましたが、夜中1時の酒場の雰囲気が“流し”を連想させたと言います。「ミュージシャンは、音楽を必要としている人とそれを共有したいし、酒を飲む人たちは音楽を必要としています。僕が舞台で歌っていて客席を見ると、そこにはさっき海から帰ってきたばかりの漁師のおじさんや、一緒に飲んでいるおばさん達で、互いに昔馴染みや友人同士でした。そのお客さん達の雰囲気が全然猥雑じゃなくて、逆に人情味に溢れていたんです。」

 

彼が大学生だった2010年代、北投は温泉リゾート地へと変貌を遂げただけでなく、月琴民謡祭の開催や母国語による音楽創作の気運の高まり、新北投駅の里帰りなど、地域に根付いた芸術文化の人気も盛り上がっていました。このような時代背景の中、彼もまた音楽を通して、台湾の文化を読み解こうとしました。そして、友人達とバンド「阿克楽団」を結成し、台湾語楽曲のコンテスト「南面而歌」に参加して、高評価を獲得しました。その後陳明章(チェン・ミンズァン)のスタジオとの契約に至ったのです。陳氏に付いて、よりディープな北投の音楽と文化に触れ、伝説的な流し・鍾成達(ツォン・チェンダー)との出会いも果たしました。「父親が有名なレストランでビッグバンドのリーダーをやっていたという鍾さんは、小さな頃から北投で流しとして芸を磨け、と言う教育方針の下で育ったそうです。その時代を経験したわけではありませんが、北投で育って音楽を作っている者として、憧れや羨望を感じていました。」

 

「ある夜、温泉路を散歩していて、小雨の山道、日本の木造建築、古い電柱などの景色が僕をあの頃の北投に連れてきてくれたような感覚に陥り、頭の中に「那卡西」の旋律が浮かんできたんです。僕の作曲は、常にそのイメージを風景にしたところから始まります。僕にとっての音楽とは、そのイメージの世界を生み出すことなんです。」彼は、ホステスと恋に落ちた流しの物語を想像しながら、カントリー調をベースに曲の背後にある細かなディテールを組立て、曲の中に環境音を加えることで、映画や舞台劇のような想像上の空間を作り、流しの魅力とうつろいを表現しています。

北投の流し(那卡西) 

「那卡西」は日本語に由来しており、「流し」(Nagashi)の発音から来ています。まるで水が流れるように、様々な場所で歌う事を指しています。1960~1970年代にかけて、北投の温泉ナイトクラブの爆発的な人気に比例し、流しの人気もうなぎのぼりになっていました。初期は歌い手が自分で演奏するスタイルでしたが、後に3~5人のバンド形式になり、ギター、ドラム、アコーディオン、更には音響効果も豊富な電子ピアノ等の演奏が加わり、お客さんのリクエストを受けたり、伴奏したりというサービスも始まりました。当時の流しは、温泉宿で歌うだけでなく、宿の個室でも夜通し歌っていました。1979年の廃娼政策以降、このようなナイトクラブは衰退し、1990年代にはカラオケやKTV等の新しい娯楽の台頭で、流しの存在は徐々に忘れられて行きました。今日では、気ままに渡り歩いて歌えるような場所や文化的背景が消え、このジャンルはほとんど忘れ去られてしまいました。

写真 : 雷擎〈那卡西〉MVの一場面。[写真提供 : Floating Music(浮気音楽)]

 

音楽の中に煙る温泉の硫黄の香り

陽明山にある昔ながらの温泉レストラン、六窟温泉食堂、大自然温泉食堂、馬槽花藝村、八煙温泉会館などは、雷擎家族の思い出の地図と密接に繋がっています。「年配の人たちの誕生日などの集まりがあると、必ず皆で温泉レストランへ行き、食後は大人は温泉へ、子供たちはレストランの庭で遊ぶのが、僕の子供時代のよくある風景でした。こんな風に、すぐそばに自然がある北投で育った僕は、とてもラッキーだったと思います。」彼の最近のブームは、陽明山の野溪温泉に行き、大自然の奥深くにある源泉を探索し、冷たい水と熱い温泉が交わる、野溪溫泉ならではの体験を楽しむことで、アルバム製作の際も、この野溪の秘境で曲作りをしたり音楽を聞いたりしていたそうです。

 

「北投は素朴で、穏やかで、楽しい雰囲気と人情味溢れる僕のホームタウンです。僕の音楽を通して、僕と同じ世代に育った人たちに自分なりの北投を感じてもらえたらと心から願っています。」雷擎は、北投に住む様々な世代のミュージシャンと雑談する中で、よく北投は、空気中の硫黄のガスで楽器が傷みやすくなるため、ピアニストには向かないという話になるそうですが、それは一瞬でロマンチックな想像を掻き立てたと言います。「温泉の硫黄のせいで全てダメになった機材、錆びてしまったギターやドラムから奏でられる音こそが、北投の香りを醸し出す『北投の音色』そのものなのかもしれません。」

 

写真 : 北投温泉路に残されている素朴な風景は、過ぎ去った時代を物語っています。