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北投溫泉探秘

テキスト / 吳亮衡
画像提供 / 開放博物館、國家文化記憶庫

北投呀,春天來時,山有彩霞雲波。
北投呀,夏天來時,蟬兒聲啼而送涼。
北投呀,秋天來時,湯船滿載月光與蟲聲。
北投呀,冬天來時,黃金般的花兒盛開。

鄉原古統
《 臺北名所繪畫十二景 北投溫泉》 
(新攝:台灣藝術史研究學會,發佈於國家文化記憶庫)

鄉原古統 《 臺北名所繪畫十二景 北投溫泉》 (新攝:台灣藝術史研究學會,發佈於國家文化記憶庫)

深夜の鉱泉に姿を現れた平田源吾

1895年のある冬の夜、体に持病を抱える一人の日本人男性は飢えに耐えきれず、湿っぽい地面に倒れ込み、疲れ切った身体は無情な北風に当てるまま。月明かりに照らされた男の痩せ細る身体は息切れそうにもがき、出発する直前の意気揚々とした自分を振り返ると、心身共にボロボロになりそうだ。

「今回も温泉発見出来ないのか…」

温泉を求めて探索に出た平田源吾はもう今回は何回目の失敗かすら覚えていない。

生まれも育ちも日本だった平田源吾は、怪我したら温泉に浸かると治療の効果はあることを子供の時から知っている。台湾に渡ってきて、開墾の重労働で満身創痍の彼は蒸し暑い天気にも慣れず脚気まで患った。鏡に映るげっそりした自分の姿を眺めても、出来ることは何一つもなかった。

そんなある日、大稲埕北部の淡水河の近くに「patauw」と呼ばれる場所に天然温泉はあるかも知れない、という情報が平田の耳に入って、絶望していた彼には希望の光が見えた。

しかし、平田源吾の「温泉探しの旅」は思うようには行かなかった。言語の壁で道も聞けず、更に間違った道案内をされてしまい、現在観音山と呼ばれる地域に迷い込んで、帰り道がわからなくなる事もあった。ようやく漢人の住民に「磺水」(hông-tsuí 硫黄成分が含まれる水の意味)の場所に教えて貰ったのに、今度は悪天候の影響で温泉探しの旅がまた先延ばしになった。

「ここまで温泉に近づけてきたのに、また失敗か…」

と思った瞬間、足裏に急遽温かい熱気を感じた平田源吾はびっくりして飛び上がった。そして僅かに残った体力を振り絞って、一生懸命に熱気の出どころを探し回った。彼が顔を地面に近づけてみると、良く知った懐かしい腐った卵の匂いがした−−そう、それが温泉ならではの硫黄の匂いだ。平田は空いたお腹がぐぅーと鳴りながらも気にせず渓水に飛び込んで、数ヶ月ぶりにやっと手に入れた至福のひと時をじっくり味わう。

それから数日間平田源吾は毎日のように温泉地に通い、時には真顔で、時には満足気な表情になって温泉に浸かる。そんな平田を見て、近くに住む漢人はみんな全く理解出来なくて、その奇行もちょっとした噂になった。

ここまで読んできた読者さんは、多分当時の漢人達と同じ疑問を持つと思う:どうして病を患って満身創痍になった平田源吾は、そこまでして山奥にある温泉に拘っていたのか。

それはまず、日本人と温泉の深い関係性から話そう。

日本統治時代浴場が建設される前の湯滝。
(画像提供:「國立中央圖書館臺灣分館」典藏、「中央研究院臺灣史研究所檔案館」數位物件典藏。發佈於開放博物館。)

日本統治時代浴場が建設される前の湯滝。 (画像提供:「國立中央圖書館臺灣分館」典藏、「中央研究院臺灣史研究所檔案館」數位物件典藏。發佈於開放博物館。)

温泉産業の発足

環太平洋火山帯を位置する日本にとって、熱々の温泉は当たり前の存在。

日本では弘法大師が伊豆の温泉を湧き出させた伝説や、武田信玄公と負傷した兵士達が温泉で湯治して傷を治療したなど、温泉にまつわる様々な言い伝えは広く知り渡れた。日本人にとっての温泉は生活の一部だけでなく、文化の面から見て信仰や医療行為という意味合いもある。

明治時代から文明開化を迎えた同時に日本国内の交通建設も急発展し、有名温泉地に訪れる入浴客が増えて、鉄道旅館や温泉宿もどんどん開設した。生活や文化の一部だった温泉産業はこの時期から新しいビジネスに転身した。

それを知ってるから、台湾を転々として金儲けの方法を探していた平田源吾は、噂で温泉の存在を聞くだけであんなにやる気満々になったのでしょう。

何度も失敗して、50過ぎた平田源吾はようやく台湾で自分の事業持つことが出来た。そして温泉旅館「天狗庵」は新北投の発展と共に日々有名になっていく。

日本統治時代北投公共浴場外部。
(画像提供:「國立中央圖書館臺灣分館」典藏、「中央研究院臺灣史研究所檔案館」數位物件典藏。發佈於開放博物館。)

日本統治時代北投公共浴場外部。 (画像提供:「國立中央圖書館臺灣分館」典藏、「中央研究院臺灣史研究所檔案館」數位物件典藏。發佈於開放博物館。)

台湾人の温泉初体験

実は温泉で金儲けしようとしたのは、平田源吾だけじゃなかった。

近年の研究によると、平田源吾が「天狗庵」を開設する前に、この未開発の温泉地は実は官庁や民間も狙っていた。ただ、当時北部に住む漢人から見ると、温泉は避けないといけない場所だった。

昔から農耕が漢人の生活の中心で、熱い硫黄泉は水稲を損害する恐れがあって、それに硫黄の刺激的な臭いと温泉の近くに首狩りを狙う蕃人が出没という噂があったので、ビジネスところか、ほとんどの漢人は湧き出す温泉を無視していた。だから温泉に飛び込んだ平田源吾の満足気な顔を見て、その場にいる漢人はみんなとても不思議だと思った。

漢人は温泉地を避けがちだが、各国を遊歴した外国商人はそれとは真逆で、北投でビジネスの可能性があると誰よりも早く気付いたのだ。

日本統治時代青磺温泉公共浴場廊下。
(画像提供:「國立中央圖書館臺灣分館」典藏、「中央研究院臺灣史研究所檔案館」數位物件典藏。發佈於開放博物館。)

日本統治時代青磺温泉公共浴場廊下。 (画像提供:「國立中央圖書館臺灣分館」典藏、「中央研究院臺灣史研究所檔案館」數位物件典藏。發佈於開放博物館。)

温泉郷としての北投

1893年、大稲埕で貿易するドイツの硫黄商人オウリーはたまたま北投で温泉資源を発見して、そこで高級温泉倶楽部を作り、当時は多くの外国軍人の憩いの場となった。

日本統治時代初期、北投辺りの山を歩く行進中の軍隊が偶然湧き出す温泉を発見したあと、新北投地区の周辺の温泉業者が一気に増えた。松濤園、保養園、清泉館、天狗庵、松島屋、桔梗屋、養気閣などの温泉宿が続々と開業し、当時台湾にいる日本人は癒やしを求めて故郷の日本を思い浮かべながら、北投「温泉地」にやって来た。

しかし温泉に入るまでは、その道は長かった。先ずは鉄道の淡水線に乗って北投駅で降りて、駅から出たら、温泉地までは「金を使って人力車で行く」か「体を張って自力で歩いて行く」かを選ばないといけないという。交通の不便さで旅客からのクレームが続出だった。それで台湾総督府鉄道部は運輸課長の村上彰一を筆頭に、温泉客を運ぶための鉄道支線の建設に取り掛かった。

1916年春、「新北投支線」と「新北投駅」が開業し、往来の旅人を迎え入れた。もともと温泉客を運ぶために作られた路線なので、文献資料ではこの支線を「浴場線」と呼ぶのがほとんど。この時点から「新北投=温泉郷=憩いの場」というイメージは多くの人に認識された。こういう斬新な発想は日本人客を惹きつけて、台湾人の温泉へ対する既定概念も覆された。

こういった背景もあってそして教育の普及による、台湾総督府から温泉入浴は身体に良いと宣伝した影響で、台湾人は温泉に入ることは健康と進歩の象徴だと思うようになった。台湾人の生活が温泉にちゃんと繋がったのは、それが初めてだった。

とはいえ、当時温泉に行ける財力のある台湾人は上流社会の人や資産家のみ、この人達は日本人が経営する温泉旅館は勿論、台湾人が開設した旅館にも行った。1921年、新竹のジェントリー黄旺生の日記に「風呂上がり、沂水園へ入り支那料理を注文。」それと1942年、台南の医者呉新栄の日記の「共に新北投へ、沂水園で休憩。ゆったりと温泉に入り、世間話もしながら。」から、当時の台湾人は温泉という「熱い湧き水」はもう怖がっていないと分かる。そして、北投は台湾の「温泉郷」である事もこの時から徐々に台湾人の心に植え付けていくのだった。

日本統治時代北投公共浴場内部。
(画像提供:「國立中央圖書館臺灣分館」典藏、「中央研究院臺灣史研究所檔案館」數位物件典藏。發佈於開放博物館。)

日本統治時代北投公共浴場内部。 (画像提供:「國立中央圖書館臺灣分館」典藏、「中央研究院臺灣史研究所檔案館」數位物件典藏。發佈於開放博物館。)


參考資料:

  1. 臺灣總督府鐵道部,〈新北投浴場線〉,《台灣鐵道線路一覽圖》。

  2. 臺灣總督府鐵道部,〈淡水線略圖〉,《台灣鐵道旅行案內》。

  3. 蔡承豪,〈平田源吾溫泉旅館天狗庵北投溫泉北投溫泉誌〉,《臺灣文獻別冊》34號. 2010年-09:11-25頁

  4. 吳亮衡,〈國家權力與空間建構─以陽明山地區為例〉,臺北:國立政治大學臺灣史研究所碩士論文,2016。

  5. 吳美華,〈日治時期臺灣溫泉建築之研究〉,桃園:私立中原大學碩士學位論文,2012。

  6. 楊燁、林智海,〈台北學台灣最豪華溫泉文化地景的誕生日本時代初期北投溫泉史新考〉,發表於第九屆台北學研討會,2020.12.05。