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癒しの老舗漢方薬局

文章 - 游如伶(ヨウ・ルーリン)

撮影 - 蔡耀徵(ツァイ・ヤオツェン)

長生堂 二代目主人 陳國樑(チェン・グオリャン)さんの北投の記憶

北投市場にほど近い場所にある長生堂藥房は、1959年に創業しました。創業者の陳朝明さんが経営していた頃は、北投が戦後最も栄えた時期でした。温泉は、日常の煩わしさから解放してくれるだけでなく、地場産業を育む源泉でもあります。漢方薬局はその中で、人々の体を癒す漢方薬を提供する以外にも、温泉宿やレストラン、「国術館」と呼ばれる接骨院・整体院などと共に、北投独自の文化を発展させてきました。

写真:北投長生堂藥房 二代目ご主人 陳國梁(チェン・グオリャン)さん

漢方薬局から台所まで その人に合った薬膳を届ける 

1960年~1970年代頃までは、温泉宿の営業が始まる前の午後4~5時頃に、厨房の担当者が漢方薬局に電話をし、その日の夕食に使う薬膳の材料を注文していました。当時まだ中学生だった陳國樑さんは、毎日父親の調合した薬膳の材料を持って幸福印の自転車に跨り、温泉路や光明路を通り抜け、山の上に林立する温泉宿へ急ぎました。時間通りに生薬を手渡すと、厨房でその日の朝北投市場で採れたばかりの新鮮な食材と合わせられ、すっぽんの煮込みや、鶏肉の酒焼きなどの滋養強壮に優れた料理に生まれ変わりました。

 

「当時の北投はとても賑やかで、100軒を超える温泉宿があり、一日中薬膳を届けて終わる日もあったんですよ。」その頃は飛ぶ鳥を落とす勢いで、薬膳以外にも健康のための薬膳酒や二日酔いの薬を求め、たくさんの人々がやって来ては、ひっきりなしに注文が続いていたと陳國樑さんは振り返ります。1979年、北投廃娼政策が打ち出された時、高校生だった陳國樑さんは幸福印の自転車から原付バイクに乗り換えて、配達する宿も100軒を超えていました。そして、この時の旅館から聞こえてくる酔った人たちの戯言や、流しの演奏、エレベーターの隙間から垣間見た女中さんの姿は、政策が施行される過渡期に見た、夜の楽園の最後の名残となったのです。

 

廃娼政策が実施された後、北投温泉のお店は、華やかな時代とは対照的に次第に衰退していきましたが、薬膳は変わらず静かな山間の町に住む人々の胃や身体を癒してきました。1980年~1990年代にかけて、初冬の時期は藥房が一年で最も忙しい時期で、どの家庭もみんな藥房に薬膳の食材を買いに来ていたと陳國樑さんは言います。今でこそ、昔のように手間暇かけて調理することは珍しくなりましたが、30~40年に渡って愛されてきた長生堂藥房の薬膳の味は、多くの北投の人々の記憶にずっと残り続けているのです。

写真: 長生堂藥房 創業者・陳朝明さん(中)と奥様の楊秋霞さん(左)。1960年代頃に撮影されたもの。

医療資源が不足していた時代の健康の門番

写真: 陽明山管理局が発行した乙種営業登録証。

昔の北投は「獅陣」という獅子舞に似た伝統芸能が盛んでしたが、武術を使う練習で傷や打撲などの怪我をする人が多く、そのほとんどが「国術館」で治療を受けており、そのような治療に関連する商売が大繁盛しました。「国術館」では、徒手療法によって患者の治療を行うだけでなく、治療後の補助薬として、漢方薬局に「狗皮膏(ゴウピーカオ)」という塗り薬や、粉薬、「薬洗」[1]と呼ばれる漢方外用薬などの、調合を依頼していました。「昔は、国術館には看板なんか必要ありませんでした。赤く塗られた木の板に3、4枚狗皮膏の湿布を貼って門の前に掛けておけば、遠くからでもすぐに分かりましたからね。」

 

当時は「赤跤仙仔(チャーカーシェンナ)」と呼ばれる、医師免許を持たずに医療行為を行っている人に、多くの人々が助けを求めていました。「かつて、北投には薬草に詳しい沢山の赤跤仙仔がいて、患者に薬のリストを渡して、行きつけの漢方薬局で買うように言っていたんです。」陳さんは、そのリストを持ったお客さんが来ると、普段よりも雑談を増やして、症状を把握し、その都度リストを正しく修正していたそうです。

 

陳國樑さんが言うには、「治る可能性が低い」国術館の徒手療法や、無免許で治療を行う赤跤仙仔などは全て、医療資源が乏しく生活が楽ではなかった時代を反映したものでした。その中で長生堂藥房は、処方薬の受付や最終的な診断を手助けし、地域医療の支柱となっていたのです。

 

[1]血液循環をよくするための漢方薬で、生薬を米酒で2~3ヵ月漬け込んで作るもの。マッサージに使用され、かつては国術館だけでなく、一般の人々も漢方薬局で購入していました。

左の写真: お客さんが来店すると、陳さんは雑談で症状を把握し、薬を調整します。右の写真: ずっと使われ続けてきた、すり鉢とすり棒は藥房の宝物です。

火焼柑の味と北投で交わす友情

かつては、長生堂藥房は朝7時に開店してから深夜まで、助けを求める人々が次々と訪れ、年中無休の状態でした。医療の普及や漢方薬産業の衰退に伴い、人々が病気の時に頼っていた漢方薬局も次第に姿を消していきましたが、長生堂藥房は旧正月でもお店を開け、カウンターや壁沿いに並んだ椅子には、お茶を飲んで談笑する地元民や、遠く大屯山からわざわざやって来るお年寄りで賑わっています。

「人は休むことができますが、お店は休めません。山に住むお年寄りは行く場所がないですからね。」陳國樑さんは、父親が藥房を営んでいた頃から立ち寄ってくれていた農夫を思い出していました。大屯山の農夫たちは、毎朝3時か4時頃北投市場へ野菜を売りに行き、店を閉めた後に藥房へ来てお喋りをしながら休憩するのです。その時はちょうど大屯山の火燃柑の季節で、みかんを収穫すると、農夫たちは先ず長生堂藥房を訪れ、箱いっぱいの火燃柑をくれました。

 

「昔の人は人情をとても大切にしていて、その人も、よくここでお茶を飲んで休憩させてもらっているからと、自分の育てたみかんを売る前に必ず分けてくれていました。」陳國樑さんが藥房を継いだ後も、先代からのお客さんはお茶を飲みにはるばる訪れてくれます。そして、今では漢方薬材を煎じたものの残りかすを集めて、農家の人たちに肥料として譲り、作物が収穫されると、その肥料で育てた新鮮な野菜や果物をお返しにくれるそうです。北投市場、大屯山の農家の人々と長生堂藥房は互いに協力し合い、郷土の人情を育んできました。藥房はお年寄りにとって心の拠り所であり、心身ともに癒される場所でもあるのです。

写真: 長生堂藥房の看板猫「豆花(ドウファー)」も、地元の人々に寄り添うという重要な任務があります。

気取らない 温泉のある日常

かつて、「新北投」には多くの温泉宿がありましたが、今では観光客向けの温泉リゾート地に変貌を遂げました。しかし、長生堂藥房のある、磺港溪から南の「旧北投」には、昔ながらの町湯が残っていて、地元住民にとって、この素朴で大衆的な温泉こそが彼らの日常なのです。

 

「昔は家庭に給湯器が無く、お風呂に入るにはお湯を沸かさなければならなかったので、みんな洗面器やタオルなんかの洗面道具を持って、近くの銭湯まで汗を流しに行ったんですよ。」陳國樑さんは、子供のころによく行った「北投青磺名湯」[1]と「珠涼浴室」[2]はどちらも大通りに面していて、とても便利な場所にあり、住民の生活に密着した、昔から北投で暮らす人々にとっての思い出の場所だと言います。

 

ここ10年来、北投温泉では、「白硫泉」や「青硫泉」に加えて、新たに「漢方風呂」も観光客からの人気を集めています。長生堂藥房は、北投温泉博物館と協力して漢方風呂の配合を仕上げました。これは、2022年に行われた北投温泉博物館と東京の稲荷湯との公衆浴場文化交流イベントで使用され、日本の人たちにも北投温泉の癒しの湯を体験してもらったそうです。地元に愛される老舗漢方薬局は、漢方薬で人々の体を癒し、薬膳で胃や消化器官を元気にし、さらに漢方を取り入れた温泉で、100年の歴史を持つ小さな町を癒し続けています。

 

[1]「北投青磺名湯」は、北投中央北路一段十二号に位置し、かつては「三銭間仔」と呼ばれていました。外部委託で経営している公衆浴場は、今でもお年寄りたちが集まる憩いの場です。

[2]「珠涼浴室」は、以前は北投の公館路一号にありましたが、現在は営業を終了し、個人経営の浴場になっています。泉質は青硫泉です。陽明山管理局から営業許可が下りたのは1950年ですが、その後経営を引き継いだ方によると、開業は日本統治時代まで遡ることができるそうです。

写真: 長生堂藥房は地元の人々がお茶とお喋りを楽しむ憩いの場です。