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小さな町の風土から生み出した台湾の磁器産業

「北投焼」に焼き付けた土地の記憶

テキスト / 洪侃
画像提供 / 洪侃、楊燁

 

温泉旅館「松濤園」の創立者松本亀太郎は1912年に、京焼系統の「粟田焼」窯元「九代帯山与兵衛」を招き、北投陶器所を設立。写真は虹燁工作室所蔵の北投焼絵葉書。(画像提供:楊燁)

全台湾の市区町村の中に最も特徴的な行政区は、台北市の最北端にある小さな町「北投」だと私は思います。理由は二つあって、一つは地形の多様性と豊富な自然資源、僅か57㎢の土地には海面とほぼ平行する関渡平野と高さ1092mの大屯火山群が同時に存在していること。そして二つ目は長い歴史による産業の発展、台湾で一番最初に開発された北投は歴史が長いゆえ、文化と工芸産業の発展が顕著です。そんな中、一番良く知られる「北投焼」こそこの町の自然と文化の集大成で、台湾の精密磁器工業の原点とも言えます。

大屯山の麓にある北投貴子坑の地形は丘陵と台地で、中新世堆積岩の地域にあって、磁土と成分の近い「北投土」と呼ばれる白い粘土が多く含まれてます。台湾は6000年前に先住民が粘土で焼き物を作った記録はあって、清王朝以降も台南や南投で日用陶器が焼かれました。しかし制作難易度の高い緻密な磁器が作れるようになったのは、ここ最近のことです。

北投焼は京焼譲りの上品さを持ち、裏には「北投」の落款がある。写真は北投焼鉄絵青花アヤメ猪口と裏の落款。
摘自《台灣現代陶瓷的故事》,秋惠文庫藏。(画像提供:洪侃)

「北投焼の元祖」と呼ばれる松濤園の創業者

陶磁器は水簸で不純物を取り除いた粘土を成形し、乾燥した後窯に入れて焼いて絵付けや釉薬を施した物です。陶器の原材料は粘土質の陶土で、磁器はガラス質が多く含まれる白い磁土やカオリンです。中国では磁器は地名の後に「窯」を付けて命名するのが多く、耀州窯や越窯などがその例で、日本なら有田焼や美濃焼など「焼」を使うのが主流です。日本統治時代の台湾もその呼び方に基づいて、北投産の陶磁器を「北投焼」と呼ぶことにしました。

昔(かつて)の北投は主に農業社会で、清王朝が台湾を治めた時期に北投で陶器制作の記録が残されており、日本統治初期から磁器産業の規模が成長し、日常で使う磁器の生産も始めました。温泉業の発展により温泉旅館が猛スピードで増え、北投も大変繁盛してました。磁土が多く含まれる貴子坑地区は水資源にも恵まれており、燃料の産地である内湖、松山、基隆との距離も近く、陶磁器産業を立ち上げる為の好条件が完璧に揃いました。

北投は19世紀末期から焼き物を製造し始めたという説もありますが、最新の史料と陳新上さんの研究によると、磁器の製造技術は温泉旅館「松濤園」の創立者松本亀太郎が導入したことを判明しました。磁器の原料と条件が揃ってあるので、1911年に松本は日本から職人を呼び窯を立ち上げました。翌年は京都から京焼系統の「粟田焼」窯元「九代帯山与兵衛」を招き、「北投陶器所」を開設して、北投土で陶磁器を作るようになりました。松本亀太郎もその功績で「北投焼の元祖」と呼ばれてます。

収集家兼北投史研究者の楊燁さんが発見した「北投焼松濤園青花松枝杯」、ボディには「松濤園」の落款があり、北投焼と松濤園の深い繋がりが分かる。 5.7x2.7cm。虹燁工作室藏。(画像提供:楊燁)

京焼由来の上品さ

現存する九代帯山が作った器の裏には「北投」を書かれたものは多かった。収集家・北投史研究者の楊燁さんが最近見つかった北投焼の湯呑の形、釉薬の色彩と絵付けは、まさに九代帯山与兵衛の作品と同じ特徴を持ち「北投」の落款があって、本体には「松濤園」の三文字が書かれていて、そこから松濤園と北投焼の深い関係性がわかります。しかし松本亀太郎が1918年に亡くなった同時に、北投陶器所の短い歴史も終わりました。 

北投陶器所時期の北投焼は日本「京焼」の様式に似ていて、表面に細きひび割れがあり、釉薬は落ち着きのある色彩です。使われた釉薬の成分は酸化コバルトと酸化鉄で、発色は青と黒の二種です。当時生産したのが主に日常で使われる湯呑みや瓶だが、一番最初は温泉街のお土産のために作られた北投焼は優雅なフォルムをして絵付けも洗練されてて、京の窯元の技術が光りました。

1919年「北投陶器所」は日本人後宮信太郎に買われて「北投窯業株式会社」になって、1934年に更なる事業拡大と共に「台湾窯業株式会社」に改名し、日常の陶磁器、タイル、工業用防火レンガなどを生産しました。北投焼の定義は松本亀太郎が生産した陶磁器から、後宮信太郎が生産する建築用タイルまで含まれてます。台湾の総統府、中山堂、台北第一女高など日本統治時代に建てられた建築外壁には、北投焼のタイルを多用してます。

しかしどんな定義でも、1912年から北投から採った土を北投で焼いた陶磁器であれば北投焼だと言えます。ちなみに1923年、賀本庄三郎が北投で立ち上げた「大屯製陶所」で焼成された陶磁器は「大屯焼」と呼ばれて、北投焼と同じ貴子坑の北投土で茶碗や湯呑を作って、日本統治時代では北投焼と並ぶ北投名物です。

単色の釉薬を使う北投焼もあれば、彩色の絵付けを施された作品もある。写真はセデック族の婦人が描かれた北投焼絵付け瓶。
11x15.5cm。秋惠文庫藏,摘自《台灣現代陶瓷的故事》
(画像提供:洪侃)

単色の釉薬を使う北投焼もあれば、彩色の絵付けを施された作品もある。写真はセデック族の婦人が描かれた北投焼絵付け瓶。 11x15.5cm。秋惠文庫藏,摘自《台灣現代陶瓷的故事》 (画像提供:洪侃)

北投焼初期に生産した磁器は日用品が多かったが、温泉街のお土産用磁器が流行り、通常の雑器より優雅なデザインをしている。写真は北投焼瓢箪型箸置き。
2.4x4.5。陳德清先生藏,摘自《台灣現代陶瓷的故事》
(画像提供:洪侃)

北投焼初期に生産した磁器は日用品が多かったが、温泉街のお土産用磁器が流行り、通常の雑器より優雅なデザインをしている。写真は北投焼瓢箪型箸置き。 2.4x4.5。陳德清先生藏,摘自《台灣現代陶瓷的故事》 (画像提供:洪侃)

北投焼の作りが丁寧でフォルムが繊細、台湾の陶磁器史で名を馳せた。写真は北投焼飴釉瓢箪型徳利、北投文物館「瓷源—北投燒特展」の展示品。
15.5x11cm。秋惠文庫藏,摘自《台灣現代陶瓷的故事》。
(画像提供:洪侃)

北投焼の作りが丁寧でフォルムが繊細、台湾の陶磁器史で名を馳せた。写真は北投焼飴釉瓢箪型徳利、北投文物館「瓷源—北投燒特展」の展示品。 15.5x11cm。秋惠文庫藏,摘自《台灣現代陶瓷的故事》。 (画像提供:洪侃)

北投焼に練り込まれた地元の物語

筆者が務める北投文物館の前身は1921年に建てられた高級温泉旅館「佳山旅館」です。佳山旅館は二階建ての木造建築、和洋折衷の内装は何回かの増築を行い、7つの浴場とトイレなどに北投焼のタイルを貼ってます。。当時使ったオシャレなタイルは10種類以上もあり、「十三溝紋タイル」や「浮き彫タイル」そして「布紋タイル」があって、色はグレーグリーン、茶色、青など、本館と陶然居では、日本統治時代で大人気だったこれらのタイルが鑑賞できます。

北投磁器の100年記念イベントは2011年に開催され、北投文物館と陳新上さんは「瓷源—北投燒特展」を企画しました。当時全台湾から十数件の北投焼作品を集めて、そして北投焼後期に製造されたタイルや防火材、食器や花瓶などの陶磁器工業品・日常雑器を展示し、北投焼の歴史と伝承をより多くの人に知ってもらえました。台湾の経済と工業の成長と共に歩んできた北投焼は誕生した100年後に、このような形で里帰りできるのはとても有意義だと思います。

北投文物館の前身は「佳山旅館」、浴室には当時流行りの北投特産北投焼タイル。
(画像提供:洪侃)

北投文物館の前身は「佳山旅館」、浴室には当時流行りの北投特産北投焼タイル。 (画像提供:洪侃)

北投文物館の浴室は北投焼のタイルを使用、写真は「十三溝紋タイル」。
(画像提供:洪侃)

北投文物館の浴室は北投焼のタイルを使用、写真は「十三溝紋タイル」。 (画像提供:洪侃)

北投文物館の浴室に使われる北投焼タイルの種類が多く、色は落ち着いた色を多用。写真は「布面タイル」
(画像提供:洪侃)

北投文物館の浴室に使われる北投焼タイルの種類が多く、色は落ち着いた色を多用。写真は「布面タイル」 (画像提供:洪侃)