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北投:台湾語映画の聖地

台湾のハリウッドへようこそ

テキスト / 蘇致亨
画像提供 / 國家電影及視聽文化中心、北投溫泉博物館、瘋戲樂工作室

台湾映画史における北投は重要な存在です。1925年、初の純台湾製無声映画「誰のせい?」のクルーは馬を連れて汽車に乗り、朝5時の新北投に大勢の撮影隊がやって来て、入浴客の中でも話題となった。台湾語映画の黄金時代である1960年代、北投は映画のロケ地として盛んでいました。

北投で「本格台湾語映画」を作る

当時の台湾語映画は現代台湾映画の発展にも繋がります。戦後、台湾語だけを話す台湾人は人口の約70%なので、台湾語で映画を楽しみたいのは当たり前なこと。ただ当時の撮影技術はまだ限られてて、無声映画を見ながら台湾語で物語を語る「弁士」に頼るか、香港で製作されたアモイ語の映画を見るしかない。そういう映画は東南アジアで「アモイ語映画」と呼ばれるが、台湾に来たら「台湾語映画」に名乗って上映する事が多かった。しかし、アモイ語と台湾語は同じ閩南語由来の方言とはいえ、アクセントやニュアンスは微妙に異なります。それにどうも慣れない台湾の映画監督は自分たちで「本格」台湾語映画を作ることを決意しました。

そして一番最初に出来たのは何基明監督と雲林県の劇団「麦寮拱楽社」が制作した、1956年公開の「薛平貴と王宝釧」です。それから撮影用のフィルムは普及し始めて、台湾語映画は1960年代初頭に黄金時代を迎えた。年に100本以上の映画作品が世に送り出されて、新しい映画は週3本のペースで上映することになった。当時制作された1500本近くの台湾語映画の中、約⅗のロケ地は北投でした。

1961年公開の《大俠梅花鹿》、「天然景色アニマルコスチューム台湾語お伽話映画」で有名で、ロケ地は自然豊かな北投だった。
(画像提供:國家電影及視聽文化中心)

(画像提供:北投溫泉博物館)  

 

北投に住み込み、台湾語映画ファミリーを築き上げる

なぜ北投で映画を撮るかと言うと、温泉街に多くの宿泊施設があるからです。戦後の台湾では宿泊施設の数が猛スピードで成長し、それで危機を感じた北投の宿は新しい作戦を考えたのだ。映画の制作会社に融通を利かし、小切手での支払いや特徴のある内装で映画撮影を誘致しました。

1960年代の北投の旅館(玉川園、牡丹荘、迎賓閣、泉源荘、美華閣、鳳凰閣、華泉、心薈芳、碧瑤、龍鳳谷、南国旅館、福禄摩廈大旅社など)はそれぞれ違うデザインの内装や部屋を持ち、台湾風の宿もあれば洋風と和風の旅館もあって、宿の家具もセットとして使い放題なのに、1日は600〜1000元だけで借りられる。一般の撮影所を利用すると一日7000〜8000元の料金と比べてかなりお得な価額です。お陰で同じタイミングに同じ旅館で違う撮影クルーが入る日が増え、北投温泉街はとても賑っていました。

ロケーション撮影も、緑豊かな北投公園へ行ったり駅でホームのシーンを撮ったりして、山のシーンなら大屯山へ水なら淡水河、田んぼを撮りたい時は八仙荘へ行く。北投に色んな建物があって、お寺なら忠義行天宮、豪邸シーンだったら高級温泉宿や山荘で撮れる。全盛期では、毎日のように色んな作品の撮影は北投で行われた。過去主にコンパニオンや舞妓さんを載せるバイク隊の乗客は俳優や撮影隊の人に変わり、日々温泉街を走り回っていました。当時の人気俳優によると、忙しい時は月6〜10本の映画を撮る事があって、住み込みで年中約10ヶ月以上は北投に滞在していたそうです。

住み込みと言っても、制作会社が大部屋を二つ借りて男女別々で雑魚寝ということです。上下関係問わず、監督も主演俳優も撮影スタッフもワンセット10元の布団を敷いて、一緒に畳の部屋で寝て、出演シーンが来たら急いて部屋から撮影現場へ向かう。「色々大変だったけど、現場のみんなは全員親切で気取った人はんまりいないね。あの時は映画仲間と適当に何かを食べたり、一緒に大部屋で雑魚寝したりして、とても楽しかったな。」台湾語映画俳優蔡揚名さんは昔のことを思い出しながらこう語った。朝6、7時にスタッフが役者と撮影隊を起こし、朝食とった後また撮影現場へ向かう。各温泉旅館の前では撮影隊の人で行列ができて、市場並みの活気が沸き立っていた。台湾語映画の先輩方に取材する度に、誰でも「あの時、みんなが家族のように和気藹々で撮影した事が一番懐かしい。」と必ず言い出します。

周信一監督の《温泉郷のギター》は北投地熱谷と玉川園ホテルで撮影された。
(画像提供:國家電影及視聽文化中心)

周信一監督の《温泉郷のギター》は北投地熱谷と玉川園ホテルで撮影された。 (画像提供:國家電影及視聽文化中心)

名優楊麗花主演の武侠映画《三鳳震武林》も北投で撮影した。
(画像提供:國家電影及視聽文化中心)

名優楊麗花主演の武侠映画《三鳳震武林》も北投で撮影した。 (画像提供:國家電影及視聽文化中心)

映画からミュージカル、北投の映画文化に新風を吹き込む

北投で撮影された台湾語映画は多くあります。そんな中、「天然景色アニマルコスチューム台湾語お伽話映画」と言うキャッチコピーまで付けられた、1961年に公開した張英監督の作品《大俠梅花鹿》は現代の若者にもとても人気です。少しシュールで奇抜な動物コスチュームが特徴で、60年も前に作られた《ズートピア》みたいな子供向け映画でした。当時アニメ映画を作るには高額の資金は必要なので、コストダウンのために俳優に動物の着ぐるみを着せて撮影した。映像を観るとロケ地は北投の山奥だと分かるが、具体的に何処で撮ったのかは不明です。

現存する約200本の台湾語映画の中では、一目で撮影場所は北投だと分かる映画は1966年周信一監督の《温泉郷のギター》です。オープンニングに映ったのは地熱谷で、物語の舞台となる玉川園ホテルの跡地には今、マンションの玉川温泉ビルになった。他には、名優楊麗花さんが主演の台湾語武侠映画《三鳳震武林》に出てきた北投中和禅寺、辛奇監督の《さらば十七歳》には北投公園、《王さん柳さんの台湾珍道中》と日本映画愛染かつらから改編された映画《ただならぬ愛》は「美華閣」の姿が観えます。

それから時が経ち、庶民の普段使う言語が国語(北京語)に制限されるようになり、1960年代末期に到来したカラー映画ブームと共に、モノクロ台湾語映画は徐々に表舞台から姿を消した。だが、北投から生み出される映像作品は途絶えること無かった。1978年、ホラー映画《血夜花》で有名の姚鳳磐監督が作った映画の舞台となった北投文物館は、劇中の「古月荘」という設定で人々に知られて、その設定を借りて1980年代の映画《北投の最終列車》の主人公が泊まる宿の名も「古月荘」でした。

一秒間24コマの映画はまるで北投の昔懐かしい姿を詰めたタイムカプセルのようだ。旧建築巡りと合わせて映画を観ると、昔の北投と物語はより一層鮮明に感じられます。有志の方々による努力で色んな映像作品と古い建物は保存され、「台湾のホリウッド」北投からは最近、映画監督の北村豊晴と蕭力修が撮った《おばあちゃんの夢中恋人》や作家黄春明の小説《よく笑うあの娘、秀琴》、そしてStudio Mが製作したミュージカル《Hollywood Taiwan》などの新作品が次々と生み出された。「過去」のメモリーと「今」の新たな創作が融合し、これからの北投の映画文化と歴史にさらに新しい風を吹き込んでくれるのでしょう。

Studio Mのミュージカル《Hollywood Taiwan》、音楽と物語で北投の映画史を描く。(画像提供:瘋戲樂工作室提供。攝影:秦大悲)


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