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台湾夜市と日本の納涼の深いつながり

テキスト / 関口大樹
イラスト / 慢熟工作室
画像提供 / The Metropolitan Museum of Art

毎年たくさんの外国人観光客が訪れる台湾で観光客が必ず体験したいものが夜市だ。夜市のグルメは多くの人々を引きつけ、日本では台湾夜市のイベントが開かれ、アメリカでも台湾グルメのスタンドが出店していたりとその文化は世界中に広がっている。そんな世界中を魅了する台湾夜市はいったいいつから始まったのだろうか?

台湾に根付いていた日本の「納涼」

今から遡ること120年前、日本統治時代の北投温泉から広まった納涼イベントが台湾夜市の起源という説がある。当時の納涼は大規模なもので、台北から北投まで納涼列車に乗った小旅行、多種多様なグルメ、温泉でのリラックス、踊りや花火の鑑賞など娯楽の少ない時代において最高の夏の過ごし方だった。日本で江戸時代に夏祭りの一種として確立した納涼は北投温泉で人気を集め、やがて数十年を経て台湾全土に広まり、現代の夜市に近いかたちに変化していった。そんな夜市の変遷を時空を超えて訪ねてみよう。

元来「納涼」はその字のごとく暑さを避けて涼しいところで休むことを指した。例えば、鴨川のせせらぎを聞きながら食事をする京都の「納涼床」や船に乗って涼をとる「納涼船」などは現代でも有名だ。その後、納涼の意味は変化し、伝統的な定義に加え、お祭りやイベントの要素が加わり、江戸時代にその原型が完成した。現代日本においても「納涼まつり」、「納涼花火大会」など「広義の夏祭り」の意味で使われている。

江戸時代の隅田川の納涼は当時日本最大の集客を誇る行事で、人々は涼しい夕刻に隅田川周辺に集まり、料亭や屋形船で飲食や余興を楽しみ、美しい打ち上げ花火を眺めながら暑い夏の夜を過ごしていた。現在まで数百年に渡り続く「隅田川花火大会」は東京の夏の風物詩となっている。

歌川廣重〈京都名所之內 四条河原夕涼〉
(画像提供 :The Metropolitan Museum of Art)


各国の文化や技術が融合した北投納涼会

夏のイベントとしての納涼は、明治になり近代的な進化を遂げる。台湾で納涼が始まる少し前、日本本土では納涼列車が人気を集めていた。

参加者は夏の夕方に都市と温泉地などを結ぶ「納涼列車」に乗って、ビールや果物を味わいながら納涼開催場所に向かった。人々は温泉で汗を流してリラックスし、出店の冷たい飲み物や食事を味わい、花火や踊りなどの余興を楽しんだ。当時、納涼列車は日本の伝統と西洋由来の鉄道が結びついた最新のイベントだった。

日本本土で納涼列車がブームとなると、翌年の1902年には台湾の北投温泉においても「納涼列車」が登場した。娯楽の少ない時代に納涼は大盛況となり、毎回切符が売り切れになるなど早くも大人気となった。1913年には西洋式の公園や噴水、道路が整備され、北投公共浴場が完成。家族で楽しめる台北郊外のリゾートとして整備された北投温泉では、「台北大納涼會」が開かれた。当時の「台湾日日新聞」の報道によると、なんと一晩で5000人以上も参加したと言われている。

「吃喝玩樂*」とまさに様々な娯楽が一同に介したイベントだったが、中でも多種多様なグルメは人々を魅了した。関東煮にお寿司、サンドイッチ、台湾料理など日本、西洋、台湾と各国の文化が入り混じるバラエティ豊かな食の数々は現代の夜市にも通じるところがある。

 (*吃喝玩樂:中国語で「食べる」「飲む」「遊ぶ」「楽しむ」とあらゆる娯楽を楽しむことを指す。)

当時、夏には気温32度以上にもなったと記録されている台湾。そんな暑さを和らげてくれる冷たい飲み物は大人気で、お茶やラムネ、冷たいビール、日本酒など子供から大人まで楽しめる飲み物が揃っていた。ビールと酒は用意していた100ダースが完売し、氷菓子や甘いアイスクリームも用意すればすぐに売れていくほど人気だったとという。

グルメのほかに、多彩な余興も大人気だった。楽隊の演奏や芸妓の手踊りは目と耳で人々を楽しませた。沿道の提灯は夏の夜に情緒ある雰囲気を醸し出し、空には恒例の打ち上げ花火に加えサーチライトが空を照らし続け、この日の北投は「光の都」と称されるほど明るかったという。

このように大人気だった納涼だが、日本人だけでなく台湾の人も楽しんでいたのだろうか?答えはイェスで、納涼当日は全ての旅館が予約で満室となったが、宿泊客には台湾人団体客の姿もあり、台湾の方も早くから納涼を楽しみにしていたようだ。また、屋台にも台湾人経営のお店があり、台湾料理も提供されていた。

このように北投温泉で開かれた「台北大納涼会」は大盛況で幕を閉じた。食や技術、文化など日本、西洋、台湾の要素が入り混じり、日本人、台湾人ともに多くの人が参加した納涼は、いよいよ台湾の納涼として根付き始めることとなった。

(イラスト:慢熟工作室)


北投温泉の納涼会は台湾夜市の起源?

北投温泉をアピールするという役目を果たした納涼は、その後、規模を縮小しながらも引き続き夏の恒例のイベントとなり、台中、台南、高雄など大都市だけでなく、花蓮や台東、中壢、鹿港、鳳山など東部、中部、南部など各地域でも開かれるようになった。

一方で、昭和に入ると不況の影響もあり、納涼は姿かたちを変え、夏祭り的なものから商工会が開く「廉価納涼会」や「納涼市」と呼ばれるものが主流になっていった。「廉価納涼会」は現在の台湾夜市のようにたくさんのお店が出店し、飲食物だけでなく、様々な商品も売られるイベントになった。しだいに台湾の納涼はお祭り的な要素が強い日本の納涼とは異なり、独自路線を歩んでいったようだ。完全な非日常だった納涼は、次第に夜市のような「日常の中の非日常」となり、生活や社会の一部になっていった。

その後、日本統治時代後期と戦後の納涼の状況は情報も少なく、どのようにいまの夜市に繋がっていったのかまだまだ研究の余地はある。だが、少なくとも北投温泉から始まった納涼が、現在の夜市ような形態に変化し、台湾各地で開かれていたことは確かだ。次に台湾の夜市や日本の納涼を訪れる時には、時代の変化や共通点を想像しながら歩いてみるのも楽しそうだ。

(イラスト:慢熟工作室)