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百年前に登場、夏の夜のプチ旅行:北投納涼祭

テキスト / 郭慧
画像提供 / 北投溫泉博物館

ソウルフードを食べながら夜風を浴びて、賑わう街中の夜はこれから始まる…史料に記載されたこの情景は台湾名物の夜市ではなく、100年も前に開催された「北投納涼祭」だった。当時の人は夏の夜に列車に乗って北投温泉郷へ向かい、台湾近代のレジャー文化・鉄道旅行発祥地とも言える「北投納涼祭」参加しに行ったのだ。灯籠と電気が街を照らし続けて、駅前から温泉街の間はまるで昼間のように明るい。夜店で売ってる氷菓や果物、ラムネなどがお祭り気分を更に盛り上げてくれた。

果して北投の「納涼祭」はいつから始まったのか?「納涼祭」で何をして楽しむか?そして、当時の人は何故わざわざ夏の夜に温泉街へ訪れたのか?

(画像提供:北投溫泉博物館)

 

いざ北投納涼祭へ、20世紀で最も粋なプチ旅行

話は台湾に来た大阪商人平田源吾が北投に訪れた頃に戻します。1895年、金鉱を目当てに台湾に来た平田源吾は蒸し暑い天気にやられて脚気を患った。湯治療養の為に温泉地を探し回って、苦労の末ようやく当時漢人に毒水と呼ばれる北投温泉に辿り着いた。平田源吾はそこで土地を購入し、旅館「天狗庵」を築き上げて、そして彼に引き続き、台北軍政庁で財務課長を務めていた松本亀太郎も、和室部屋での宿泊サービスと上品なお食事を提供する旅館「松濤園」を開設した。

しかし渓流沿いの野湯での混浴が主流だった北投は「風紀が乱れる」という原因で、1901年に野湯入浴は台北州庁に禁止された。ピンチに遭った北投の温泉産業を守る為に平田源吾は事情を訴え続けて、最終的台北州庁から温泉入浴の許可が下りた。条件として「風紀を乱さない浴場」を作ることになり、男女別々で入浴する「湯滝浴場」が1902年に開設。湯滝浴場の他に淡水鉄道線もほぼ同じタイミングで開通し、これを機に北投納涼祭が正式に幕を開けた。

1902年、松本亀太郎も手掛けた「北投倶楽部」の開業式が行われた。貴賓の送迎は台北と北投を往復する貸切列車を使い、当日は花火を打ち上げて、会場にラムネやお寿司などを提供する屋台がずらりと並んで、参加者はみんな食べ歩きしながらお祭り気分を味わえる。これがのちに開催された北投「納涼列車」と「納涼祭」の前身とも言えます。北投倶楽部が開業した12日後、台北と北投を繋ぐ「納涼列車」が正式に開通。乗客はビールを片手に駅弁を食べて、到着したら月見をして出店のグルメを食べたり、夜の北投で納涼したり、20世紀で最も粋なプチ旅行を思い存分楽しむ。

(画像提供:北投溫泉博物館)

 

100年の時を超えて、夏の思い出が現代の北投で甦る

日本の伝統行事である納涼祭は、浮世絵などの芸術作品にもよく描写される。日本統治時代から自然豊かな北投は夏の納涼やお散歩に最適な場所だと言われるが、交通手段は少なかった。淡水線が開通後、総督府鉄道部と地元の人の努力で、初代「納涼列車」が台北の乗客を乗せて北投へ走り出した。乗車券がすぐ売り切れるほど人気だったので、納涼列車に乗りたい人にはお金だけでなく「運」も必要だ。

それから納涼祭は毎年開催する様になり、1903年、北投公園のリニューアルに合わせる《台湾日日新報》主催の「台北大納涼祭」が北投で行われた。来場者は5000名も超えて、現地の旅館は全て満室状態になった。人々は温泉に入ったり、屋台のおやつを買って食べたり、楽隊や芸者達の演出を堪能することもできる。打ち上げ花火と灯籠が北投の夜空を照らし続けて、街中は昼間みたいに明るくてとても賑やか。

そして、台北の鉄道日帰り旅行と台湾夜市の元祖とも言える納涼祭は100年の時を超えて、現代の北投温泉郷で甦る。温泉入浴だけでなく、様々なエンターテイメントやグルメを堪能するのが現代の北投納涼祭の醍醐味。普通温泉は寒い時期に行く場所だと思われがちだが、今度は百年前の納涼祭の風景を思い浮びながら、夏の北投温泉に訪ねてみてはいかがですか。

 

《來去納涼!2017北投納涼祭》系列活動—(左)山林納涼遊園地、(右1、2)仲夏冰西瓜山樂園
(画像提供:北投溫泉博物館)